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はじめに
ある会議の後、二人の参加者がそれぞれ別の人に出来事を語ったとします。
一人は語ります。「今日の会議、田中さんがまた的外れな発言をしていた。会議を引っ張る気がないみたいだ」。
もう一人は語ります。「今日の会議で、田中さんが前回と違う角度から問題を捉え直していた。新しい視点だったと思う」。
同じ会議、同じ田中さんの同じ発言。それなのに、二人の語り方は正反対です。どちらかが嘘をついているわけではありません。両者とも、自分が見たままを正直に語っています。
なぜこんなことが起きるのか。それは私たち人間が、目の前の出来事を「ありのまま」に見ることが、原理的にできない存在だからです。
本記事では、この人間の認識の構造的限界を出発点として、組織の中で何かを記録するという営みに、どんな注意が必要かを論じます。哲学の知見、ジャーナリズムの蓄積、そして日々の業務で使える具体的な記述技法。これら3つを橋渡しすることで、「主観を持ち込まない記録」という技術の基盤を整理します。
働く中で何かを記録する立場にあるすべての方に。経営者、人事担当者、管理職、そして自分の業務を記録する一人ひとりの方に、お読みいただきたい一本です。
1. 「見たいようにしか見ない」という、人間の構造
私たちが目の前の出来事を「ありのまま」に見られないのは、心の弱さや偏見からではありません。それは人間の認識構造に組み込まれた、避けがたい性質です。
1-1. 哲学が100年以上かけて見つけた事実
20世紀初頭、ドイツの哲学者エトムント・フッサールは、人間の認識についてある重要な洞察を提示しました。
私たちは普段、世界がそこに「ありのまま」存在していると当たり前のように思って生きています。フッサールはこのあり方を「自然的態度」と呼びました。目の前にコップがある、机がある、同僚がいる。これらはすべて、自分が見ようと見まいと、そこに存在していると私たちは無意識に確信しています。
しかしフッサールは問いました。本当に私たちは、世界をそのまま見ているのでしょうか。
実は私たちが「見ている」ものは、すでに自分の意識によって構成されたものなのです。リンゴを見る時、私たちはただリンゴそのものを見ているのではなく、「赤い」「丸い」「美味しそう」「先週も食べた」「あの人が好きだった」といった様々な意味を意識の中で重ねて見ています。純粋にリンゴそのものを見るのではなく、リンゴについての自分の意味世界を見ているのです。
フッサールはこの構造を解き明かすために、「自分の思い込みをいったん脇に置く」という方法を提唱しました。これを判断中止、エポケーと呼びます。エポケーによって初めて、私たちは自分が世界をどう構成して見ていたかに気づける、というのが彼の主張でした。
専門用語の細部はさておき、ここで大事な事実は次の一点です。人は、世界をありのままに見ているのではなく、自分の意味世界を通して見ている。これは哲学が100年以上前に明らかにした、人間の認識の構造的な性質である。
1-2. 日常で経験している「見たいようにしか見ない」
この哲学的洞察は、実は私たちが日々経験している事実です。
苦手だと感じている部下の発言を聞くと、なぜか粗ばかりが目につく。気に入っている同僚の同じような発言は、好意的に受け取れる。先入観があると、同じ行動が違って見える。これは多くの人が経験しています。
新人の頃、自分が一生懸命だと思っていた仕事ぶりが、上司から見ると的外れだと指摘された経験。逆に何気なくやった仕事が、想像以上に評価された経験。同じ自分の働き方が、見る人によってまったく違って映る。これも誰しも知っている事実です。
これらは個別の偶然ではなく、人間の認識が常にそうなっているということを示しています。私たちは見たいものを見て、見たくないものを見ない。これは弱さではなく、人として自然な性質です。
1-3. 組織の中で起きる、見え方のずれ
組織の中では、この「見え方のずれ」が深刻な問題を生むことがあります。
上司は部下を「やる気がない」と見ている。部下は自分を「精一杯やっている」と見ている。両者は対立しているのではなく、それぞれの位置から、それぞれの意味世界を通して同じ事実を見ているのです。どちらかが嘘をついているわけではありません。
評価面談で、被評価者が「自分はこんなに頑張ったのに、なぜこの評価なのか」と感じる時、上司の側にも「これだけ伝えてきたのに伝わらない」という感覚があります。両者の意味世界が擦れ違ったまま、対立だけが残ります。
労務トラブルの場面で、当事者と会社が「事実」をめぐって正反対の主張をすることはよくあります。これも多くの場合、両者が嘘をついているのではなく、同じ出来事を異なる意味世界で見ていた結果なのです。
2. ジャーナリズムが100年かけて作った「事実と意見の分離」
人間の認識が「見たいようにしか見ない」性質を持つことは、報道の世界では深刻な問題として早くから認識されてきました。記者が現場を取材して書く記事は、人々の世界認識を形作るからです。記者の主観が記事に紛れ込めば、社会全体の認識が歪みます。
そこでジャーナリズムは、100年以上の歴史の中で、ひとつの規律を確立してきました。それが「事実と意見の分離」です。
2-1. 事実とは何か、意見とは何か
報道の世界で「事実」と呼ばれるものは、複数の人が観察すれば同じように記述できるものです。
これらは、見た人によって表現は違っても、骨格は変わりません。
一方「意見」とは、事実に対する解釈、評価、推測、感情です。
これらは見る人の立場、経験、価値観によって変わります。
ジャーナリズムの規律は、記事の中でこの両者を明確に区別することです。事実は事実として、意見は意見として、別々に記述する。混ぜない。読者が両者を見分けられるようにする。
2-2. なぜ分離するのか
事実と意見を分離する理由は、明確です。
混ぜて書かれた文章は、読み手にも書き手にも、自分が何を受け取り何を伝えているかが見えなくなります。「田中さんはやる気がない発言をした」という一文には、「田中さんが発言した」という事実と、「その発言はやる気がない」という意見が混ざっています。読み手はこれを「事実」として受け取りやすい。書き手も自分の意見を事実だと思い込みやすい。
分離して書けば、両者の境界が明確になります。「田中さんは○○と発言した。私はそれをやる気がないと感じた」と書くことで、誰が何を観察し、誰がどう解釈しているかが見えるようになります。
2-3. 完全な分離は難しい、しかし努力には価値がある
ここで重要な前提があります。完全な分離は実際には困難です。
何を「事実」として記述するかの選択そのものが、すでに主観的な判断です。会議で田中さんが3回発言した、佐藤さんが5回発言した、山田さんが10回発言した。これらすべてを記録するわけにはいかず、書き手は何を書くかを選ばなければなりません。この選択にはすでに書き手の関心が反映されています。
それでも、ジャーナリズムが100年かけて積み上げてきた規律には大きな価値があります。完全な客観は不可能でも、主観の暴走を抑える努力には意味があるのです。意識的に事実と意見を分けようとする訓練を重ねることで、無意識に意見を事実として書いてしまうことを、かなりの程度防げます。
組織の中の記録も、同じ精神で書くことができます。
3. 主観を抑える記述技法5原則
哲学とジャーナリズムから学んだことを踏まえて、組織の中での記録に応用できる具体的な技法を5つ整理します。これらは特別な訓練を必要とせず、明日から実践できるものです。
3-1. 原則1:観察可能な行動だけを書く
最も基本的な原則がこれです。
記録する時、自分が実際に観察したものだけを書きます。声が大きかった、3回発言した、表情が硬かった、書類を提出した、提出が期限を過ぎた。これらは観察可能な行動です。
逆に、観察できないものは書きません。やる気がない、不誠実だ、能力不足だ、問題意識が低い。これらは行動ではなく、行動から書き手が引き出した解釈です。
避けるべき記述:田中さんはやる気がない態度だった。 推奨される記述:田中さんは会議中、3回中3回とも発言なしで、視線は資料に向けていた。
3-2. 原則2:5W1Hで具体化する
事実を記述する時、5W1Hを意識すると、自然と主観が抜けていきます。
When:いつ起きたか(年月日、時刻まで) Where:どこで起きたか Who:誰が関わっていたか What:何が起きたか Why:なぜ(ただしこれは慎重に。本人の発言以外、推測になりやすい) How:どのように起きたか
特にWhenとWhereとWhoとWhatの4つを丁寧に書けば、それだけで記録の客観性は大きく上がります。Whyは難しいので、本人の発言として記録するか、書き手の解釈として明示するかを選びます。
避けるべき記述:先日、田中さんが業務命令を拒否した。 推奨される記述:2025年9月12日午前10時の定例会議で、田中さんに対し上司Aから「来週までにレポートを提出してほしい」との指示があった。これに対し田中さんは「業務量が多いため期限内の提出は困難です」と応答した。
3-3. 原則3:形容詞・副詞を使わない
主観が紛れ込む典型的な経路が、形容詞と副詞です。
「ひどい態度」「ずいぶん遅刻」「かなり問題」「明らかに不誠実」「異常な数の」。これらの修飾語は、書き手の評価を含んでいます。読む人は事実の記述だと思って受け取りやすいですが、実際には書き手の解釈です。
形容詞・副詞を排して、数値や事実だけで書くと、自然と客観的な記述になります。
避けるべき記述:田中さんは異常に多くの遅刻をしている。 推奨される記述:田中さんは2025年8月の22営業日中、9日間で出社時刻が始業時刻を15分以上超過した。
3-4. 原則4:自分の感情と相手の状態を分ける
記録する時、自分が感じていることと、相手が実際にどうであるかを区別します。
「困った」「腹が立った」「呆れた」は自分の感情。「相手が困っている」「相手が怒っている」「相手が呆れている」は相手についての推測です。後者は本人に確認しなければ分かりません。
書きたい場合は、それぞれを明示的に分けます。「私は困った」「相手は『困っています』と発言した」のように。
避けるべき記述:田中さんは反省の色がなかった。 推奨される記述:田中さんに「今後の改善について考えはあるか」と質問したところ、「今のところ特に考えていません」と回答した。
3-5. 原則5:解釈を書く時は、解釈であることを明示する
ここまでの4原則を守っても、組織の中の記録ではどうしても解釈や評価を残したい場面があります。これは禁じる必要はありません。ただし、それが解釈であることを明示することが重要です。
「私は」「と感じた」「と推測される」「の可能性がある」「と思われる」といった言葉を使い、観察と解釈の境界を明示します。
混ざった記述:田中さんは業務に対する意欲が低下している。 分離した記述:田中さんの直近1ヶ月間の業務報告は、文字数で前月比50%、内容の具体性も低下している。私の解釈では、これは業務への関心の低下を示している可能性がある。ただし家庭事情の変化など他の要因も考えられるため、本人と対話することが必要と判断している。
このように観察と解釈を明示的に分離して書けば、後から読む人が両者を見分けられます。あなたの解釈が間違っていた場合でも、観察の事実は失われません。
4. それでも「完全な客観」は存在しない、という前提
ここまで5つの原則を提示してきましたが、最後に重要な前提を共有します。
4-1. 何を書くかの選択そのものが主観
5W1Hで書いても、形容詞を排しても、感情を分離しても、それで完全に客観的な記録ができるわけではありません。
そもそも、何を記録するかの選択そのものが、書き手の主観に基づいています。会議の中で起きた100の出来事のうち、どの3つを記録するか。1日の業務の中の50の場面のうち、どれを書き残すか。この選択には書き手の関心、価値観、立場が反映されます。
哲学が示したように、人間の認識は世界をありのままに受け取ることができません。完全な客観は、人間にとって到達不可能な理想です。
4-2. それでも、努力には価値がある
しかし、完全な客観に到達できないからといって、努力に意味がないわけではありません。
主観の暴走を抑える努力は、確実に記録の質を変えます。「田中さんはやる気がない」と書く組織と、「田中さんは○月○日の会議で3回中0回の発言だった」と書く組織では、3年後の組織文化がまったく違うものになります。
完全な客観を目指すのではなく、不完全さを認めながら、それでも主観を抑える努力を続ける。これが現実的で、しかも有効な姿勢です。
4-3. 記録は「これが事実だ」ではなく「私はこう観察した」
記録に対する向き合い方を、ひとつ変えてみましょう。
記録は「これが事実だ」と確定的に主張するものではなく、「私はこのように観察した、解釈した」と提示するものです。後から別の人が別の角度から観察を加え、解釈を加える。複数の視点が積み重なることで、初めて出来事の輪郭が立体的に見えてきます。
このように考えると、記録は完成した正解を書くものではなく、対話の素材を残すものになります。完璧でなくていい。ただ、誠実に観察したことを誠実に書く。それが記録の本質です。
まとめ:主観を抑える努力は、人を尊重する営みである
ここまで論じてきた内容を整理します。
人間は世界を「ありのまま」に見ることができません。これは個人の弱さではなく、認識構造に組み込まれた性質です。哲学が100年以上前に明らかにした、変えがたい事実です。
だからこそ、何かを記録する時には、主観を抑える技法が必要になります。ジャーナリズムが100年かけて積み上げてきた「事実と意見の分離」の規律は、組織の中の記録にも応用できます。観察可能な行動だけを書く、5W1Hで具体化する、形容詞・副詞を使わない、感情と相手の状態を分ける、解釈は解釈として明示する。これら5つの原則を意識するだけで、記録の質は大きく変わります。
完全な客観には到達できません。しかし、主観の暴走を抑える努力には価値があります。
そして最後に、もうひとつ大事なことがあります。主観を抑える努力は、人を尊重する営みでもあるということです。
「あの人はやる気がない」と書く時、私たちは相手を判定しています。「○月○日の会議で発言が3回だった」と書く時、私たちは相手を観察しています。判定は人を狭め、観察は人を可能性として開いたままにします。
「やる気がない」と判定された人は、その判定の中に固定されます。「3回の発言だった」と観察された人は、次回はもっと発言するかもしれない、別の場面では違う動きをするかもしれない、という可能性を保ったまま、組織の中に存在し続けます。
記録の言葉を変えることは、組織の中の人への向き合い方を変えることです。それは個人の善意の問題ではなく、組織として身につけられる技法です。そしてその技法は、組織と人の関係を、長期的に少しずつ健やかな方向へ動かしていきます。
主観を抑える記録運用を考えている方へ
MONTAIは、本記事で論じてきた事実ベースの記録を、組織の中で自然に運用できる仕組みとして設計されています。5W1Hの様式、感情と事実を分ける誘導、観察と解釈を明示できる構造。これらが、記録する側に特別な訓練を求めない形で組み込まれています。
「自社の記録運用を、もっと事実ベースに整えたい」と考えている経営者・人事担当者・管理職の方からのご相談をお受けしています。
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